「わかる」技術

畑村式「わかる」技術 (講談社現代新書)

畑村式「わかる」技術 (講談社現代新書)


自分ではうすうす(というかはっきりと)感じてたのですが、
本書に指摘されるまでもなく、どうも僕には「わかる」技術、
というか素養が乏しいことがわかりましたorz


そのことを明確に意識したのは実は本書ではなく、萩本順三氏のこの話を読んだときでした。
(よかった、まだ残ってた。)
『ITエンジニアとしての道を究めるには』
http://jibun.atmarkit.co.jp/lskill01/rensai/hagimoto06/hagimoto01.html
http://jibun.atmarkit.co.jp/lskill01/rensai/hagimoto02/hagimoto01.html

私は、知識には2種類あることをようやく理解できた。書籍や人から教わった知識と、教わった知識を自分の体験と照らし合わせて検証を繰り返すことで、自分の中で創造された新たな知識である。

で、本書ですが、上の話と近い内容が書かれていました。
なるほど、真に「わかる」っていうことは、知識をそのまんま
受け取るだけでなく、疑問や仮説をぶつけ、検証に耐えられるだけの
自分なりのモデルを構築できたときに始めて得られるものなんだと。
(あれ、今度はカール・ポパーっぽい受け売りwこれだから自分は…orz)


それで、「わかる」の本質がますます納得いくものになったんだけれども…。
さて、自分はどうなのか?と問うと、どうもそこまで「わかる」に
こだわったことがないような…。


言い訳に過ぎませんが、常々問題解決を迫られ、時間に追われるITエンジニアには、
ここまで突き詰めて事の本質をつかむ努力ができる人間は
なかなか数少ないような気がします。


表面的な浅い理解のまま、技術のおいしい部分を道具として利用している。
表層に現れる業務の問題にだけ注目し、対処療法的なシステムにしてしまう。
つまり、HOWにのみ能力が特化し、WHATまで踏み込むことができていない。
本書でも触れられているように、課題設定ができてこそ、本当の問題解決能力なのに。


Haskellを学ぶ目的には、それを克服することも考えてのことですけれど、
果たしてこの歳から本書のような「わかる」技術を習得、習慣付けることが
できるのかどうか不安です。


いっそ、このまま、泥臭い、即物的なHOWの人でも価値はあるんじゃないか?と開き直ってみたり…。
いや、本書で言うところの「偽ベテラン」には、もちろん、なりたくはないのですが。